第六十一回 宮本 百合子 ― ロシヤのお茶(2)

茶の蔵かねも

2015年02月27日 14:18

お茶と文学者 第六十一回

宮本 百合子 ――― ロシヤのお茶(2)

株式会社「かねも」相談役 角替 茂二

宮本百合子はロシヤ滞在中のことを「道標一部」に克明に書いている。ロシヤの有名作家ゴーゴリイ、ゴールキイ、ツールゲーネフ、チエホフ、トルストイ、ドストエフスキー、シヨローホフ、等々作品のどれをとってもお茶が出てくる。矢張りお茶は寒地の必需品である事がよく解る。



「ロシアの人は昔からよくお茶をのむことが小説にも出て来ますが、来てみると、実際にのみたくなるから妙ですよ」
 瀬川雅夫がそう云った。
「日本でも信州あたりの人はよくお茶をのみますね―――大体寒い地方は、そうじゃないですか」
 もち前の啓蒙的な口調で、秋山が答えている。
 うまい塩漬胡瓜をうす切れにしてバタをつけたパンに添えてたべながらも、伸子の眼は雪の降っている窓のそとへひかれがちだった。モスクワの雪……活々した感情が動いて、伸子のこころをしずかにさせないのであった。
(全7P12道標一部)



 明治の時代に、ロシヤ文学の開拓、翻訳の第一人者であった二葉亭四迷も頗るのお茶好き。余計な事かも知れないが、妻君と友人の証言がある。旅行中の日誌もある。




△飲食物の嗜好 酒は全たく飲めず、その代り甘いものは大好きで、普通の餅菓子では氣に入らず、一番甘いものをとの望みで、甘い菓子を選んでは毎晩書齋に持つて往くのを例としました。お茶も非常に好きで、十時過ぎに子供が寢靜つた頃、お茶を煎れて持つて往きますと、自分の書いて居るものに就て種々談話を仕てくれましたが、別段快活に話して笑ふやうな事は御座いませんでした。煙草は非常に好きで、喫まないでも左の手に煙草を持つてゐないと筆も執れない程でした。
(全9P313主人の平生について長谷川柳子)

非常なる神經家 二葉亭は蠻殻に似合はぬ美食家で、特に茶は上等の玉露が大の好物であつた。元來が非常な神經家である爲か、飯の中に一ツ石でもあると其日はモウ飯を喰はぬと云つた様な譯で、本郷の家に居る時は米を盆の上で一々撰るのが母堂の仕事であつた。三十五年に二葉亭が僕と一處に哈爾賓に居た時などは好便毎に母堂から玉露を送つて來たもので、二葉亭は滿州の蠅に往生して白の紗で蚊帳を造って其中で食事もし筆も執つた。
(全222友人)


明治三十五年
海外遊行(中国)日誌の一部 
数日前茶一斤購入せるを憶出す。
その代金 8吊4百
 十二月廿九日(十一月廿八日)
買物
   砂糖 五斤   $1.10
   茶(青葉)   $1.60
   味附海苔     70
   罐詰(七ッ)  48づつ $3.36
   鮭罐       60
   温泉煎餅     90
   松茸罐詰     45
   筍罐詰      50
   ゴマメ      50
――――
6.26


一月七日
林屋洋行にて買物
   茶 萬春香  二斤  1.50づつ  $3
   茶壺と茶碗  $5
   (茶壺は林屋よりの贈物)

 

埼玉の町田恒蔵さんから「世界茶どころ」という本を頂いた事がある。その中で氏はグルジアに於ける茶の生産状況について健筆をふるわれ、興味深く拝見した。
 近頃では「茶」のトピックス、――サンクトペテルブルク、JETROの梅津哲也「拡大するロシヤ消費ブーム、日本食、日本茶の輸出可能性」がよいレポート、示唆にとんでいる。



  古い手紙
  湯浅芳子宛
 …………
 ゆっくり御飯をすませ、午後出来上った新茶を飲み、又机に皈って来たところ、お茶といえば、きょうは貴方のお菓子で薄茶をのみ、大いに満足しました。
(大正十三年六月二十日)


………
 今九時、大変のどがかわくので、貴方が番茶をのんで居た大茶碗に波々とお茶を貰って来、それをのみ又これを書いて出しました。
(六月二十四日)


ロシヤから日本向け通信
 國男さん
 英男さん
 ハガキ面白く読んだ。怪画嘲刻を見ないで残念です。こんどツーさんに会ったら忘れず伝えて下さい。
 皆がツーさんのお家へ行って、万年床や、アヤツリ人形や、サモワールまで見たそうですが、これはモスクワの我々の生活よりロシア風です、と。
 全くロシアと云えばすぐサモワールを思い出すし、私共だって、モスクワ雀にならないうちは、ロシアへ行ったら、机の上にサモワルがあって、そこからお茶をのむことと思って居た。ところが、サモワルは、何だか私共より遠いところにある。――というのはね、家庭を持って居る人はサモワールも持って居るだろうが、私共のように暮して居るものが、一寸二人でお茶をのむ。さあ、サモワールと、五十銭ずつ出しては居られない。それ丈のお湯が又飲めもしない。私共のテーブルで、サモワルが煮立ったのは、大晦日の晩、クリスマスの晩、十二月七日の御誕生日とだけです。
 然しツーさん、あなたのサモワルは底抜けではありませんか?
(一九二八・二・二五全25P392)



ロシア病院日誌(モスクワ)
…………
 故に、病院へ入ってもモスクワに於て、病人は決して聖ルカに於てのように日常生活のデテールまでを人まかせにしてしまった安らかな快感は味えない。ニャーニカ達は、私が毎朝茶に牛乳を入れてのむという習慣を決して記憶しない。彼女等の頭は恒に新しい。
―――そこの卓子に牛乳の瓶があるでしょう。コップへ半分ばかり温めて頂戴  私はお茶を牛乳とのむんだから―――
 お茶は戸棚に入っている
 モスクワではまだ、身動きの出来ぬ病人はよごれて寝て居ても当人やニャーニカの恥辱にはならぬ、寛容があるらしい。午前七時に当直のニャーニカが入って来て手拭の端をぴしょぴしょ濡してくれる。私は五歳の女の子のようにそれを果敢(はか)なく顔を拭いて、手を拭いて、オーデコロンをつけて、日々新たにその卓子の上にある牛乳瓶についての説明をくりかえさなければならないのだ。
 病院へ入ってもCCCP於ては自分の意志と茶罐とを失ってはならぬ。病院では朝晩熱湯をくれる。〔欄外に〕
 ロシア人と茶。午後三時茶がわく。シュウイツァールの男がクルシュクールもってそっと歩いて行く。エイチャイピーラの唄=事務所の茶=クベルパルトコンフェレンスのトリビューンにもさじのついた茶のコップの写真が出た
 健康な村のニキートや技師マイコフがする通り、患者達も朝は自分の茶を急須につまんで、病院からくれる湯をついで、それがすきなら受皿にあけてゆっくりのむ。
 正午十二時に食事が配られ、四時すぎ夕食が配られ、夜は又茶だ。
(全18P512一・一二)

 
一月三十日
 二十六日間臥て居る。病院へ入ってから三週間と一日になった。
 餌(えさ)は牛乳、茶、スープ、キセリ、マンナヤ・カーシャ、やき林檎とオレンジの汁、その他は自身皮下脂肪。
 これ丈永い間病臥して半流動物の食物しか摂れない経験は始めてだ。
 (全18P521一九二九・六・一二)



宮本顕治宛手紙
…………

私がお母さんのわきでお茶をいれたり何かする。それを、お父さんまで至極満足そうにして眺めていらっしゃる。こういうときの私の心持、おわかりになるでしょう?もし貴方がわきにいらしたらどんな顔をなさるだろうと、あなたの独特な一種の表情を思い浮べ、微笑を禁じ得ず。但しこれはひとりになってのとき。
(全19P171一九三七年)



…………
 そうかと思うと室生犀星。庭でくらすことを書き、八十坪ほどの庭だが一人では守りをしかね、植木屋が入っていて草とり婆さんが、一本一本こまっかい草までぬいていて、雨が降ると障子をしめてお茶ばかりのむのですって。
「一時間以上の雨は庭をきたなくするからである」ハッハッハと笑ってしまうわね。明日からは五月梅雨ですから、おお哀れ犀星よ。汝の茶腹をいかんせん、というところです。実におくめんなしに。
(全20P208一九三九 雑誌新女苑)



…………
 きょうは私は大変ぜいたくをして居ります。火鉢に火を入れたの!素晴らしいでしょう。そしてその火の上には鉄瓶がのっていて、しずかにたのしい湯の音を立てて折ります。鉄瓶のわく音は気をしずめます。お茶なんか、先ずすべての手順が、(湯が釜でわく音をきくに至る)気を落付けるために出来ているのね。このお湯のわいている音は一つの活々した伴奏で、私の空想は段々ほぐれて、いろいろの情景をわき立たせて、
(全20P286一九四一)

…………
 さあユリそろそろがんばって!と自分に云って頭だかおしりだかとんとんと、お茶を紙袋に入れるときみたいにトントンとやると、大抵何とかまとまるのに、目下のところ、かためそこねたところてんよ。さあ、さアなんて云ったって、上っ皮がいくらかかたまって、しんがとろりでどうも頭の中が湯気の立つようで。ほんとに可笑しいこと。自分に仕事をさせるのにも骨が折れるときがあるというのは夏景色ですね。
(全20P409一九四一年)


 …………
 ガス節約ですから(小人で一円五十何銭)御飯は土間のへつついで炊いてガスは子供用に使うため、お茶さえのみません。朝夕だけ。あとは水。冬はこうは行きますまい。
(全22P195一九四三年)



日記
 かえって早速お茶を二杯ものむ。やれやれと。お婆さんてこんなものか知らと笑った。
(全25P31一九四三・二・二七)


 五月十八日(木曜)
 巣鴨へ行く
 検事局。最終。不起訴になる様子。きょう事務上の手続がおくれて申渡し出来なかったが、とのこと。
 かえり巣鴨、テーブルをお調べでつかっていると云って小さい台もって来る。丁度やす喫茶店にあるような。宮、「お茶でも出そうだね、お茶は出ませんが、どうぞあしからず」
 きょうは弁当を日比谷の亭でたべて気持よかった。いいことを覚えたと思う。何と云っても四年ぶりで事件がすんだので、気分のんびりして、巣鴨で寝たくなってボーとした。
(全25P105一九四四・五・一八)



 祖母の茶
 祖父の留守の夜の茶の間では、祖母が三味線をひいて「こっくりさん」を踊らしたりした。夫婦生活としてみれば、血の気が多く生れついた美人の祖母にとって、学者で病弱で、しかも努力家であった良人の日常は、鬱積するものもあったろう。祖父はお千賀、お前は親に似ない風流心のない女だな、とよく云っていたらしい。祖母の家は茶が家の芸だったのだそうだ。祖母が茶をたてるのは一遍もみたことがない。その代り浅草の鰻屋へはよくつれて行って貰った。趣味にしても人の好悪にしても祖母はどこまでも現世的であったと思う。
(全17P588繻珍のズボン)



 下島のおぢさん
 わたしたちの子供時代、うちにはずいぶんいろんなひとがいた。下島のおじさん。これは祖父の弟で、子供たちが下島のおじさんというものを知るようになってから、いつも長い八の字髭をはやし、色のさめた黒木綿の羽織を着て頬っぺたがときどきピクピクとつる人だった。自分用の小さい中古の急須と茶のみ茶わんをひと重ねにして、それを手のひらで上から包むようなもちかたでもって、台所へ出て来た。昔風に南側が二間の高窓になっていた、そのかまちの上に急須と茶わんをのせて、七輪の方へ来てやかんをとり、自分ののむ茶をいれた。茶をいれる間も、下島のおじさんは片手を黒木錦の羽織のなかへ懐手したままだった。
 高窓のところによりかかって、溢れそうにいっぱい注いだ茶わんへ顔をもって行って、高い音をたててお茶をすすり、頬をピクリピクリとさせながら、よく面白くなさそうにひとり言を云っていた。
(全17P742道灌山)



 末広鰯
三陸では鰯がこれまでどっさりとれて、ぐるりの地方の農村では肥料にことかかなかった。今年はその鰯がとれるはじから末広に姿をかえて行った。夥しい末広鰯が、それは加工されたものだから生のまま、とれたままのものより割のよい価で、よそへ飛ぶように売り出されて行った。三陸の鰯は静岡の茶園へ行って、そこでもう一遍ほぐしてただの鰯に戻されて、それから茶の根に肥料として使われたという。
(全17P630諸者轉身の抄)
(末広鰯のことはよく分からないまま転記、もう一度ほぐしてただの鰯にもどされて、)
 


自然と庭園
 …………
 私は、庭が、せめてありのままの自然の一部を区切って僅の修正を施した程度のものでありたい。本当の野山をいくら捜してもない樹木の配置、木と木との組み合わせ等を狭い都会の空地に故意(わざ)とらしく造るより、自然の一隅で偶然出会って忘られない印象を与えられた風景の再現を目標として、工夫を凝すなら凝したい。
 茶道の名人達は、その感情を深く味到したのだろう。悲しい事に、今日東京に住む私共は、全然野生に放置された自然か、或は厭味にこねくられた庭か、而も前者はごく稀れにしか見られないと云う不運はあるのだ。
(全17P170素朴な庭)

 

九州の東海岸(臼杵の庭と茶室)
 大分臼杵という町は、昔大友宗麟の城下で、切支丹渡米時代、セミナリオなどあったという古い処だが、そこに、野上彌生子さんの生家が在る。臼杵川の中州に、別荘があって、今度御好意でそこに御厄介になったが、その別荘が茶室ごのみでなかなかよかった。
 ……………
 臼杵川は日向灘とつながって潮の満干が極めて著しい。臼杵へ出入りする船の便宜を計って、川と中島との間に橋というものは一つもない。軽船に棹さして悠暢に別荘への往復をするのだが、楓樹の多いこの庭が、ついた日の暮方夕立に濡れて何ともいえない風情であった。植込まれた楓が、さびてこそおれ、その細そりした九州の楓だから座敷に坐って、蟹が這い出した飛石、苔むした根がたからずっと数多の幹々を見透す感じ、若葉のかげに一種独特な明快さに充ちている。
 …………
 茶室などのことを私は何も知らないが東京や京都で茶室ごのみというと、清々しくはあるが余り暗い茶室。暗い、木下暗、なんだかそういう連想がある。光線が暗いという上心持の晦渋さをも幾分含む。それには、植込の樹にも大分関係あるらしいことが九州へ来て分った。


(つのがえ しげじ)


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